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誰のための診療? [今日話したこと]


患者さんは高齢コミュニケーションは何とかとれている。寝たきり患者は家族の顔をすでに認識できなくなって5年以上になる。
肺炎で入院してきたのだが、我々の仕事はもちろん肺炎を治すことであるが。どうして一抹のむなしさが残るのだろうか?
高齢者は難しい。一つば御本人とコミュニケーションをとれないことが、医師のモチベーションをおとし、また誰も口にできない、この人は生きていて幸せなのだろうかという漠然とした疑問がさらにモチベーションを落とすことになる。それとも若いDrは何の疑問も持たずにただ、患者の為になることを行っていくのだろうか?そしてそれは、よいことなのだろうか?私はむしろそこに一抹の不安を感じる。

我々に仕事はいったい何のためにあるのだろうか?もちろんカケガイのない命を守ることなのではある。それはとてもシンプルで、誰も異論を唱えることができない。
では、生きているが故に不幸な場合はどうであろう。借金で首が回らなくなり、家族の為に保険金ねらいで死を選んだ人はどうだろうか、これは我々には判断できることではない。それこそ黙々と命を救う努力をするのみである、それが、もしより家族への負担をかけることになったとしても。

では、乳母捨て山についてはどうであろう?もし昔の日本人が子供達の迷惑になるのであれば自ら死を選ぶということが形を変えて現在おこわなわれていたすれば、それは寛容できることであろうか?答えは否である。

というわけで我々な漠然とした疑問も感じながら、老衰と病気の 狭間の人を診ているのだろう。
ただ、誰のためか?と言われるとこれは患者本人よりも家族のための意味合いが強くなる。つまり、家族の人が経済的にではなく、心理的に安らかに家族の死を向かい入れていく過程を作ってあげることが重要なのではないかと思う。これは我々に命に対する限界へのいいわけととらえられるかもしれない。しかし、我々は微力である。高齢者診療は自分たちの無力さを思い知らされるということろも、敬遠される理由の一つかもしれない。我々もその、死を受け入れる必要があるのかもしれない、でないと逆に家族に期待を抱かせた上に最終的に、疑問に変わったりすること起こり、これがもっとも家族にとって不幸なのではないかと考える。
保険のためのDNARではなく、家族が受け入れたことの結果としてのDNARでなくてはならないのだ。
無力な我々は、家族の患者の死後の思い出のために私たちはする事を考えるのだ。

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何度でも言うが診断は誰がつける? [今日話したこと]

ここ二日、何度も言っていることがある。
それは「診断は自分でつけなさい」
検査を受けるかどうか、専門医を呼ぶかどうかだけをを決めるのが研修医の役割だと思っているのなら、レベルの高い医療は望めない。
どんなに優秀な放射線診断医も画像だけで正確な診断はできない。
例)左の股関節痛で来院した人にMRIを施行。
読みは外傷。穿刺したら膿だった。
緩徐発症 糖尿病そして発熱、身体初見から感染性関節炎の疑いを譲らなかったから穿刺までお願いすることになったのだ。
例2)
腹膜透析中の人が腹満と発熱で来院。
普通は腹膜炎を考えるのだが、CTを撮影して専門医に依頼。急性の経過だから消化管穿孔を疑ったというのだが、果たして、、それだけの情報でCTで診断つけろというのか?
例3)リスクのある胸痛のひとがEKG正常で酵素が上がっていないからMIは否定的という。そうやって機械的に否定できるのなら苦労はしないというものだ。胸痛にもいろいろある。どれほど疑っての心電図なのか? 次の検査に行くかどうかはキミが決めるのだ。
例4)
入院中の患者さんが30分ほど前に胸痛を訴えておられました。「それで?」聴診してみたんですけど心雑音も聴取できなくて、「心雑音が聞こえたらなんなの?」肺の音もきれいで「肺の音でなにがわかるの?」「・・・」ACSやdissection は考えなかったの?「そんな感じじゃないんです」「そんな感じってどんな感じ?人の命に関わるような疾患を医師になって半年の君の勘で否定するのかね」例えば心電図の侵襲は0でしょ?コストはかかるけど、それでまず否定なぜそれをとるのに躊躇が必要なの?「検査の侵襲」/「疾患の重症度×疾患の可能性」が低いほど検査の閾値も低いのではないかな?一番大切なことはなに?患者の安全じゃないの?もちろん心電図をとったから否定できるものでもなく最終的には”君が”きちんとと重症疾患を否定するのですぞ。
うーんサンドイッチ不成功。でも通じたようだった。検査をできるだけするなと言っているのではない。担当の医師が軸をしっかり持って検査を行わないと結果に振り回されることになりかねない。と言いたいのである。
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内科を選んだもともとの理由 [今日話したこと]

大学の5年生のころに苦手だった生化学を教授のもとにかよって勉強し直したことがあった。非常に楽しい勉強会であったが、そのとき感じたことは、「ほとんどの病気が遺伝子の異常でここを修復しないことには治らないのではないのか?」いまから思えば、生化学を通してのことであり、実際の臨床は治せなくてもマネージすることがたくさんあることに気づいているのだが。 その時 内科を選んだのはそのころ遺伝子治療が始まったところで、将来、本当の意味で治すことができるカテゴリーで働きたいと思ったから。
そして今は全然違う世界にいる。そんなフワフワとしたよく言えはidealisticな理由で内科を選んだのがつくづく自分らしいと思うのだが、信じることは譲らないことを信条とするわりには意外とextravertであることが振り返ると思い知らされるのであった。
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NNEとコストと個 [今日話したこと]

確率の低い診断に対して検査を行うということ。
今回下肢の脱力で来院したもともと下肢のしびれを精査中であった人がMRIを撮影したら脳梗塞であったという症例を経験した。このとき実はCTのみで一度帰宅させている。
私は常々何らかの検査をするには、想定する”疾患名”がなにか考えて、ベネフィットとリスクをトレードオフを考えるように伝えてきたし、自分自身もつとめてきたつもりである。
下肢脱力が脳の問題でないと考えるのならCTは必要ないし、脳の血管病変を考えたのならばCTはMRIを前提として撮影されることになる。免罪符的CTはわたしにはみとめられない。

専門医はその病院もしくはその地域での最後の砦である。その自覚がある限り、それがNNE(number need to examination)※をどんなに上げることになっても見落しが許されず、またそういうものを見る機会が増えるためヒューリステックな影響もかかるかもしれない。また検査をセレクトすることの評価はあまり受けない習慣もある。それは個を重んじる日本の医療のよい点かもしれない。

よって私は今まで出来るだけコストエフェクティブな理由で検査を制限するような指導は行ってこなかった。

ほんのわずかな犠牲と日本の医療経済の問題をはかりにかけるこはできないが、偉い政治家や、病院でも上位にいる、個が直接見えていない人にとっては、必要なことと考えられているかもしれない。
逆に極端なことを言えば国民全員にPET検査を健診として義務づけたら膵癌の早期発見が増えるだろうなんて考えも現実的ではない。

今日初めて研修医に日本の医療経済を考えれば、、、なんて口走ってしまったが、安い給料でめっちゃ働いている人たちに言う言葉ではなかった。あくまで患者のための医療をしてもらえばいいと思う。

私は、患者中心の医療は全体のコストを下げると信じている。外来の時間のなさや免罪符的検査のコストの方がどうしてもわからないから検査よりずっと多いと思っている。
限られた資源で医療をする以上は患者の医学的な利益を損なわずにコストを制限することは保険医療にたずさわる者にとっては必須のことと考えるが、そこを評価する機構はなく、ただ、保険病名を書くことや、症状詳記とやらいう言い訳という無意味な労働のみを課せられているのだ。
※NNEは私の造語です。

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医師が万能でないことを患者は知っているのか? [今日話したこと]

私は自分の身内が医者にかかったとき、あまり診療内容に関心を持たないようにしているし、かかった疾患の勉強もしないようにしている、何か言いたくなるのがいやなのかもめることがいやなのか?いずれにせよ、その主治医に全部委ねて、それで後悔しなければ、それでよいと思っている。結果や過程の問題ではなく、その主治医と会ったことが運命だと、そう考えようと心に決めている。
私自身が医療者だから医師が完璧でないことを知っているから、だから完璧を求めてしまうかもしれない自分が怖いのかもしれない。

基本的に患者は常に最高の医療を求める権利がある。最高の医療とはなにかわからないが、患者は今行われている医療が最高だと思いたい。我々医師はそれに答えようとするが、患者が思うほど完璧ではない。そして基本的に病気を人質に取られている。そこで検査や入院、時として投薬という代替えの責任者に免罪符を発行させたりする。そうすれば患者はなにかあってもその責任の追及場所を失うことになる。
「検査してください」と言われることはすなわち「あなたを信用していません。」に近い。その適応が医学的に正しくなくてもそんなもので免罪符が切れるならばと思ってしまったりもする。

ただ、基本的に私が医師である限り、その診療は医師が決めるというこことを守りたい。そのための努力を忘れずにいたい。
そしてそれを変えないからこそ患者との信頼関係が生まれると信じたい。
患者もしくは家族と人と人としてつきあうことによる信頼関係は不安要素のグレー部分を埋めてくれるのではないかと。
本当は完璧でないことを患者も知っている。でもこの医師に出会えてよかったと思えたら、不完全さも受け入れられるのではないかと。。
実力が足りないことのごまかしととる人もいるかもしれない。でも切り取った部分のみを相手にしている人も人間の複雑さを本当は知っているはずだ。
人は病気を通してさえも目標は「しあわせ」と考えるから。

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研修医に直接話せないこと [今日話したこと]

CTを撮った理由が説明できない。
CTは撮ったが痰は見ていない。
CRP 10には注目してCre1.2はスルー
想定した菌と抗生剤がちぐはぐ

今日のこのたった一つのプレゼンで日本の医療教育引いては日本の医療の特色が見える気がした。

よくわからないがあった方がいいCT
徒労に終わるくらいなら他の患者を診た方がいいグラム染色
高ければ不安低くても安心できないCRP 
勉強不足のまま使うことが許されている抗生剤。


「よくわからないがCT」については、一つは検査をしないとpayが得られないシステム。そして、上級医と研修医が対等でない、つまり研修医の意見も交えてディスカッションをするのではなく、提供された状況で上級医が判断する。という昔からある徒弟制度的な法式が今の医療の中にも息づいていることが原因していると思う。
また別の角度から見ると、情報はあれば(+)なければゼロもしくは(−)。患者へのマイナスやコストを犠牲にしても、学生や大学卒業したての医師が何かを判断するより情報を多く集めた方が安全。という見方も出来る。それはリスクマネジメントの考え方から正しいかもしれない。しかし、若い医師の思考静止を招き、成長もとめ、結局患者を危険に陥れているかもしれない。

「CRP伝説」もおなじような理由が考えられる。客観性のありそうなものがもし本当に客観性を持っていなかったとして、「都市伝説」をはめ込んでみんなで一緒に(赤信号を)渡れば医療事態がシンプルなものになり、それらを共有することで余計な(労力のみだが)回り道をしない医療が実現出来る。というシステムの象徴がこの「伝説」だと考える。
最近ではプロカルシトニンとかますます便利なものが開発されどんどん医師の頭で考える作業が緩和されているようだが、その分ピットフォールが増えることを知っている者のみがきちんとした医師になっていくのではないだろうか。
※「都市伝説!CRPが10を越えたら細菌感染である」もちろん当てはまる症例はたくさんあるだろうがどれほどの確率で正しいのかスタディがない。逆に低くても細菌感染である経験は日常経験する。CRPは経過を追うだけにして、診断には関与しない方が安全だと思われる。ましてや肺炎と診断した人にその高低は意味がない。

「グラム染色」が広まらない一つの原因として、日本の医師に集中する責任と医療者の需要に対する供給不足が原因しているように思う。
グラム染色上手くやれば治療の標的とする”敵”が直接その場で見えてくる訳で、これ以上の治療方針を決定づける情報はない。グラム染色をするマイナス面は労力と時間の経費のみで患者にマイナスはひとつもない。その導入がトロポニンやTSPOTより遅れるのはなぜか?それはひとえに労力もしくはセクショナリズムの問題ではないだろうか。医師は以前から医師でしかできない事柄以上のことを”偉い人’というところに祭り上げられ、管理者でなくても責任を集中させられ、人数が少ないのに(患者への責任のため)労力も強いられている。(と私は思っている)
グラム染色などとという大してお金にならない労力ばかりが増える手技はまずその必要性をもっとも知っているそしてもっとも活用する医師が導入することになる。(それもまた患者への責任のなせる技)だが、そのあたりの不条理感と”いそがしいのに’という言い訳がグラム染色の普及をおさえているのだろう。

「抗生剤の選択」
抗生剤の選択に関して日本で伝統的に感染症科というものが存在しなかった事も原因しているが、それだけではないと思う。

抗生剤の選択にはその患者を助けるためと、最近と人との長い目でみての対決という、二つの意味合いがある。
これは、滋賀県に住む人が中性洗剤を使うか、椰子の実から作った洗剤を使うかという選択に少し似ている。
患者個人を救うという大前提がある以上、細菌の環境を守ろうという考え方には大きな力が必要になる。(琵琶湖周辺での長い年月をかけて我々が教育されたように。)それが各科の強い隔壁をやぶることが出来ず、いまなお抗生剤は広いからなんでも結構効く的な理論がまかり通っており、また若い医師には「カルバペネムってなるべく使っちゃいけないんでしょ?」というマニュアル的思考までしか届いていない。


そしてそのすべてに共通して言えることは当たり前のことですらpeer pressureによってねじ曲げうる国民性ではないだろうか。あの戦争の時のように。。

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こだわりが成長させること [今日話したこと]

首が痛くで熱のあるひとに造影CTを撮ったらしい。
なぜ撮ったかときくと、「首の発熱精査のためです」という答え。
ところが首の痛み→糖尿病→首のspine tendernessであれば鑑別はMRIでしか診断がつかないものがターゲットとなる。
この知識がなかったとしても、その場で調べれは用意に教えてくれる資料はネット上にも教科書上からもたやすく早急に入手出来る。つまり、そのこだわりがなかったということ。

もしキミが発熱精査のためにCTを撮ります。程度の思考で検査をする習慣があるのなら、検査で所見が見つかったとしてもまるで天から降ってきたように感じるだろう。
検査をすれば天から降ってくる。するとますます検査の閾値は下がっていくだろう。いつもなにか当たるかな?で検査を出すということは、どういう患者ならどういう疾患の可能性があるか?どの検査がどの疾患に対してどれくらいの診断力があるのか?という知識の鍛錬も必要なく、ただ読影力のみが必要となるのだろう。そして検査がなければ診断できないどころか、検査をセレクト出来ない医師になっていく。
疾患によって病歴 身体所見 検査所見 画像所見のなかでも影響を及ぼす割合が違いそれを把握しておくことでも診断により近づくことが出来るということも重要で、画像優位検査優位の疾患には強いが頭痛など神経疾患のように病歴や身体所見が優位な疾患が苦手になっていく自分を感じたらそのことを思い出して欲しい。

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先生と呼ばれる訳 [今日話したこと]

本日入院患者が発熱。UTIが疑わしい。尿培血液培養を採取することになった。
しばらくして、血液培養を拒否されているので採らなくてもよいでしょうか?との質問。
「採らなくてもよいかどうかとキミと患者さんとの話合いとの問題であって僕は関係ないから自分で考えてください。」と突っ放した。

喘息発作が治まらないが帰るという患者。手術を拒否する患者。胃瘻を造設するかどうかなど、そんな場面にこれから何度となく経験していくことになる若い医師にこの簡単でないジレンマに触れて欲しかった。

そもそも医療の他のサービス業との違いは最終的な結果が患者側に理解しにくいことであり、そこまで医療者が責任をとることである。医療以外のサービス業ではその場の満足がすべてであり、その目標は提供側と受ける側が一致している(はず)だからといって医療者がよかれと思うことを貫くのでもなく、当然患者側の主張をすべて受けれるのでもない。
最終的にどうすれば患者がハッピーとなりうるかがどこまで予想できるか!?それをどこまで引っ張っていけるかそれが医師の使命だと考える。しかもそれは医学的な問題のみにとどまらず、その患者の精神状態、人生観、価値観をも考慮した上での判断となるのである。

喘息で帰宅すれば死ぬかもしれない人、死ぬことよりも大切なことが自宅で待っているのか?はたまた医療を信用していないのか?単に楽観的なだけなのかそれらをすべて考え、できる限り理解していただいた上での決断となるのである。

恨まれるかもしれないところで患者さんのハピネスを主張するところがこの仕事の渋いところだと思ったりする。


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さきほどから何をしているのだね? [今日話したこと]

昨日救急室から入院した人がいるが診断は肝膿瘍というもの。
研修医が下調べしているが、さっきから5分ほどCTを眺めて、首をかしげている。
「さっきから何をしているんだね。」
「いえ、肝膿瘍わからないなぁと思って」
「どんな患者さん?」ときくと、「ええと、、」とカルテを見直す。
この患者は66才で直腸癌の手術後。その転移で5ヶ月前にPDを受けている。発熱で来院したのだが、
つい1週間前に来院していたときのlaboは問題なかった肝機能が今回は上昇している。
PDとともに肝臓切除しているためか膿瘍の読みは難しくなっている。

若いドクターにはわかりずらい話かもしれないが、画像所見の結果の特異度はそれぞれの疾患、そしてそれぞれのケースによって違う。感度も読影者によってもかわる。

自分の読影力がないだけが診断ができない理由ではないのだ。ましてやPD後の肝切後非常に読みにくく特異度も感度も落ちてしまう。だがその反面、検査前確率は俄然上昇していることを臨床推論の情報にいれているだろうか?診断できなければ致死的となりうるもの、ある程度overdiagnosisになることも許されるのではないだろうか?
君たちは他のドクターのカルテを見るときそれをなぞってみていてるだけでは、全く意味がない。画像の勉強ならまた教科書をよんで見直せばよい。このドクターが造影CTまでを決断した思考は何だったのか?そしてそれは正しかったのか?自分ならどうしただろうか?そして次にどう生かせるだろうか?そういう問題意識を持ってカルテの奥の方を読んでください。

結局除外診断的に、ここじゃないかなというところを肝膿瘍と判断して治療が開始されていた。
また、放射線科の読みは別の所を指していたことを付け加えておこう。

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プレゼンに王道はない。 [今日話したこと]

本日初期研修医向けにレクチャー的なものを行なった。
プレゼンがわからないという要望があったからだが、どこまで伝わったか不明。
ただ、気のせいか今日のプレゼンはよかった。
もっとも強調したのは症例を伝えるのではなくて君が何を考えてどうしたかを伝えてくれ!
君たちを評価出来ないし、評価ができないと指導もできない。という内容である。

〇カンファレンスを行う意味
救急からに限らず、いろいろな病院でカンファレンスは行われている。
多くの頭脳が集まれば、いい結果がでるかもしれないということであろうか?

船頭多くして船乗り上げるという意味のことわざもある。
 コンセンサス
  では、なぜわざわざ集まるのか、ひとつは病院としてのコンセンサスをとるためという考え方がある、そのときの一番声の大きい人が、(たいていの場合その専門医)その疾患についての診断や治療についての主導権を握ることになる、専門外医師は例えば新しい知見が出ていても、それに従う方がスムーズにことが進むことを知っているし、専門医は常にその道の最先端をしっており、信頼されている必要がある。

 ただし、病院全員があつまるわけではなく、そのあたりは少しずつずれてくることになり、そうなると普段カンファレンスに参加しない専門医と、そのほかの医師との距離がどんどん離れてくる。最悪悪口の言い合いになることもある。
そのあたり補助としてレクチャーが開かれたり、研修医が伝達係になったり、緩衝剤になったりする。
 
 ヒトの病気というものは完全に各専門医に分かれてしまうものではなく、それぞれの科が専門で見ている人も専門外のことを持っているそれをそれぞれの専門家にいちいち投げていては効率が悪いと考えるのが必然。またどの科にも入らない事もある。例えばその病院にない科や、感染症。さらに、診療に関する哲学はすべてに医師に共通に存在するものであるが、それぞれが当然違うわけで特に死生観などもそれぞれの考え方をもっているものだろう。日本の場合市中病院の医師確保が大学に依存している病院も多く、この場合は医局が違うという障壁が分かり合いへの妨げになることがある。そんななかでいろいろなことがらについてお互いの考えを知るためには、Face to Faceが不可欠ではないだろうか。
 評価(個人)
 では普段の診療にたいする考え方はどうだろう。残念ながら日本の大学教育においては、診察の考え方(臨床推論や医師・患者関係など)を実践的に学んでいる例は少ない。(と感じる)国家試験自体がそういう形式をとっていないこと(とれないこと)も原因と思われるが、特にもっとも医師の力が必要である部分の診断についての考え方は検査依存になっている観を否めない。検査技術や読影技術が決定打となるためであろうが、それまでの過程があるからこそ検査結果が生きてくるというところがもっとも難しいところで、clear cut にいかないところなのだ。そのため、客観的な結果に負けてしまうことがある。その考え方の道筋を導くことが、若い医師にとってもっとも必要なことだと私は考えており、朝のカンファレンスはそのためにあるといっても過言ではない。「その患者にその診断がつく過程でどのように君は理論を組み立てたのか?」ということである。よくわからなかったのならばわからなかったで、それをも示していただかないと、なにも評価出来ず、つまりなんの指導もできないことになる。(1) どんな症例か、教えてくれればその症例についてお教えしますよ。(2) さあ!あなた方の診療が正しかったかどうか審議しましょう!のどちらもカンファレンスの第一の目的ではないと考えているのは私だけだろうか?
 カンファレンスでそれぞれがプレゼンすることがどういう意味を持っているのか?その意味についてコンセンサスをはかることが、カンファレンスの時間を有効に使う第一歩であると考える。
 〇フルプレゼンとショートプレゼン
 フルプレゼンでは、この疾患にこの診断をつけるにあっての重要な情報のみでなく一見関係ないかもしれない情報も含まれることがある、そこをフラットにのべることにより、担当医の考えた診断や治療の正否までチェックする可能性がでてくのだ。全部伝えてあとはゆだねればよい。ただし、出来るだけ伝わる工夫は必要になるが。
 ではショートプレゼンはどうだろうか?これはこの患者にこの診断名をつけた理由(治療を選択した理由)を順をおって理論的に説明することである。現病歴、身体所見、家族歴、血液検査 それが何かの否定のためであったり、診断のためであったりするが、それらすべてに担当医の考える理由があるはずなのである。その理由を追ってどのように診断したかを説明するのがショートプレゼンと考えている。だから「頭痛が非典型的だったのですが、どうしてもSAHを否定できずCTを撮影しました」はアリなのである。そこを「頭痛は拍動性で以前からありました。CTを撮ったところ、、、」とプレゼンされると、ここは突っ込まざるを得ず、担当医の考えは不明のままになる。
 自分の思考が飛躍した論理なのかどうか上級医の意見を聞くことができるのが教育病院だからこそ許されることなのである。肝心なのは「キミがナニを考えているか」であり、「すばらしいプレゼン」をすることではない。でなければ教育(成長)の機会は失われるだろう。
「熱原精査のために胸腹部のCT をとりました」がゆるされるかどうかは個人の意見によるのかもしれないが、これが堂々とまかり通るとすれば病院自体の教育のレベルを問われることになる。
患者の安全のため、という免罪符のもとに検査テネスムスを許していれば、せっかくの学びの機会を逃させることになる。
 
〇例(現病歴)
以下はすべて同じ患者だが、A.B.Cそれぞれの医師が得た情報の違いでなにが変わるのか考えてもらった
つまり、病歴聴取は型どおりでは診断に近づけないことがある。医師の成長はここに現れる。ということである。

  医師A;61才の男性主訴は腹痛、
昨日からの左下腹部の痛みで来院痛みは間歇的食欲はあります、
本人は至って元気、圧痛もなく、腹膜刺激症状もないので、一旦帰宅とした。

    医師B;61才の男性昨日CSを施行終了後から左の腹痛が始まり、おさまらないため来院した。採血でCRPの上昇もなく腹膜刺激症状もなく点滴にて痛みは軽快したため一旦帰宅とした。

   医師C;61才の男性、昨日大腸内視鏡施行下行結腸にポリープがあり切除を施行その後から左下腹部に痛みが始まり帰宅後も持続的に痛みがあった。食事も食べられず来院した。
 
 考察
医師A;は腹膜刺激症状がなく、痛みが軽度ならば重要な原因は否定と考えた。
医師B;はポリープ切除のことは知っていたが、そのため痛みと考え、CRPも上昇していないため問題ないと考えた。
医師C:はポリープ切除で痛みが残ることはあり得ないことを知っており、切除したところが痛いいのであればruptureが疑われ前処置しているので症状が強くないだろうことも予想できた。

 
プレゼンにテクニックというものは確かに存在する。
ただし、上記の例からもわかるようにマニュアルは最低限のことであり、わざわざ"修得"するために努力するほどのことではないと考える。決められた順番に情報を簡潔にしっかりとわかるように述べることである。順番はいろいろな書物にかいてあることである。
 ではなにがむずかしいのか、たとえばフルプレゼンであれば得られた情報を順番に述べるだけなのであとは発表の声の大きさ抑揚の付け方のみである。問題はどんな情報を収集したかである。
 念のためマニュアル的情報収集を示すが 想定疾患に基づいた情報収集がこの後に続くことになりこれが医師の力をもっとも示すものになるし、これから初学者が学んでいくべき所とても書き切れるものではない。
【ID】イメージがつくように
【主訴】2つ以内に SQの話はしていない

【現病歴】【ROS】【既往歴】【家族歴】【生活歴】【バイタルサイン】【身体所見】【胸部写真 心電図】【検査所見】【特殊検査】【プロブレムリスト】【評価】【プラン】【経過】

〇痛みの問診 : どどいつ  ジリ貧  恐怖(オリジナル)

ど:どうされました?どんな痛みですか?

いつ:いつはじまりました?

じ:時間はどれくらい続きますか?

り:理由今日いらしたきっかけは?

ひん:頻度はどれくらいですか?

きょう:強度 どれくらいの痛みですか?

ふ:付随する症状 ; 随伴症状 



LIQQOR-AAA(有名)

 WPDWF(オリジナル英語版)

When didi it start   H  Discribe it what makes you.

Point your pain

Discribe your pain

What makes your worse

Folloiwng symptom

OPQRST



● 今日のカンファレンスでの内容
○ERカンファレンスをしている理由は?

評価、向上、コンセンサス(予想どおりコンセンサスはでなかった)

○それぞれ2つ(個人評価と症例の評価)

○プライオリティ(個人評価をもっとも大切にしたい)

○よいプレゼンとは?(やはり症例をキチンと伝えることという意識が高かった)

○何が明快

○過程 結果 計画

○フルプレゼンとショートプレゼンの違い(ショートは最短距離で伝えるという意見があった、そのためにはロジカルな裏付けがしっかりしていないといけない)

○テクニック

強いて言うなら、定量的に 時系列 SOAP はひとつのくくり すべての情報に存在理由がある。

○例(納得かな、結局知識経験で問診も上達すると診断にも近づくという例)

○困ること

止まる。聞こえない。情報が少なすぎる。情報が多すぎる。理論が、飛躍する。

○疑問(時間切れ)

 




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