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診断法とジレンマ [つれづれ]

診断法ってなに?
患者の背景にあるもの。今の症状、とその経過、身体所見、それらがその疾患にどれほど関与しているかを知った上で情報を統合して考える。
情報が少ないほど鑑別は広がる。
パターン認識が時として強いこともある。
これは、頻度の高い疾患でそれらのことが同時に起こることは他の疾患では稀。という場合にこうをそうするだろう。

主訴からの診断はシンプルな疾患や、症例検討では有用であろうが、その主訴に惑わされ、診断に行き着かないこともある。

鑑別をたくさんあげると結局どれも否定出来ないという罪悪に陥る。

死ぬかもしれないのであれば、その鑑別は全て検査すべきということになる。
しかし、また検査の合併症とその疾患の確率の低さとのトレードオフになってしまう。
それを理由にしても死んでしまえは施行すべきだったことになる。

逆に待てるのであればできるだけ侵襲の強い検査は避けるべきであろう。リスクベネフィットのトレードオフいうのは簡単だが、周囲が何に対して寛容か?ということも残念ながら大切になる。つまり、常に確率でしか語れず、結果を100%予想することはできないからである。
周囲というのは多くは患者や患者家族、もしくは他の医療関係者も含まれるかもしれない。最悪裁判になった場合は公けにということか。

肺炎とわかっている人を喀痰を採取する努力を怠ってCTを取るということはどういうことだろう?綺麗な喀痰が取れることと、CTで肺炎を”評価”することはそれぞれのベネフィットを比較すると前者が明らかに高く。もちろん患者にとってのベネフィットである!ではなぜ前者を怠り、後者を優先することがあるのだろう?
おそらく、医療者の行為としても損失を重視するかではないだろうか。
それも、医療者で医療者優先のルールを作ってしまっていたりすると、怒りを感じざるを得ない。
では肺炎のようだが、単純の胸部レントゲンではっきりしないので胸部の単純CTを撮った!肺炎像あり、治療した。
というのはどうだろうか?
胸部のCTで肺炎像がなかったら、どうするのだろうか?それではやり、臨床的に気管支炎もしくは肺炎の影が出てくる前だからそれなりの治療をしますであれば、このCTはほとんど、医療者のスッキリするもしくは安心するというベネフィットにしかなっておらず、単純だからそれほどリスクになっていないということに助けられている。
肺炎像ななければ他の熱源を改めて探すというのであれば、CTを撮った意味があるであろう。
救急室ではできるだけスムーズに診療が行わなければならない。
CTを撮って帰ってまたCTそしてダメなら今度は造影などとやっていたら仕事が煩雑になり過ぎて、下手をすると他の患者を見る力落ちるかもしれない。そういった意味では喀痰の採取ほど医療者の労力を時間が必要な手技はないかもしれない。
そんなわけで、忙しかったからグラム染色はしませんでした。といういいわけがまかり通る。
ただしそんな人は時間があるときもすぐにCTを取ることを私は知っている。








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怒る教育 [つれづれ]

ずいぶん前、研修医反省会にて先輩に怒られたので私は成長できました。という意見がとても多かったことに驚愕した覚えがあります。あの時、怒る教育に反旗を翻していた時期だっただけに尚更でした。

厳しく指導とはまた別の話なのかもしれないが、それすら私は拒否したい。それは、 課題の分担と思っているから。自分のことは自分で育てるべきで、モチベーションまで責任は取りたくないと決めているから。



そういう反面、スポーツでコーチのもっとも必要な側面はモチベーションを高めること。なんていう話に賛同したりもしている。



また 事実、戦前戦後の日本水泳があんなに強かった原因が スパルタ的な指導が原因だったのだろうと思うし、(岡ひろみのような素直な人が伸びた時代?) その後衰退した理由もまたそのスパルタ教育によるものだろうということを目の当たりにした自分もここにいる。周囲の環境が最も影響力があるということか? 。。



では、最近の私は なぜ怒ってしまうのか?やはりそれは、こうさせたいという欲からくるものであることは明白なのだが、同じ内容を 1ヶ月言い続けて、それでも違う方法を取られる、で、今までは柔らかく言っていたが、強く言ってみる。すると翌日からできるようになる。

このことも、事実の1つである。



本当にこの方法が利益があると考えたら、自ら変えてくるはず。という彼に対する構想と実際のギャップに、わかったと言ったじゃないか!的な要素も加わっているのだらろうが、、



冷静になって考えてみると、自ら行わないということはやはりきちんとわからせていないということに気づく。

力ずくで従わせても、結局は身につかない。怒り損怒られ損どころか、怒り加害怒られ被害である。

動機すらくじくことになる。

あんまり根気よく、繰り返していても、耳にタコつまり思考制止になる。



わざわざ失敗させてほうらねというのもまた抵抗力を作る。



ここでの解決もやはり、聞くことなのだろう。相手を知らずに、わからせることはできない。これは世の常。

結局自分にできることは、悪い環境にしないことぐらいなのかもしれない。

対人的には対等に付き合うこと。(これがなかなか難しい)

最近は何かを掴んだ感じを得てもらうとしているが、これすら自分のためなのか彼のためなのかわからない。



そんな改めて成長していない自分を感じる今日この頃。
















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超個人的循環器フィジカル講習会で学んだこと。 [つれづれ]

左房左室 拡大はエコーで見落とされることがある。うんいつかエコーに勝ちたい。
肺高血圧で2音分裂があるのは PEくらい? そうなのか?COPDでよく聴取するが、、

MR 後尖逸脱はASに似ているというが、頸動脈で判断するから、あまり間違えたことはない。

オースチンフリントは聞いたことがないがグラハムスチールをARと言い放った苦い経験を思い出した。(同じ経験を講師の先生がされていたので少しホッとした)

S1後のESはやはり難しいらしい。ここ1年で到達しなかったが、またトライしよう。

MSは1度厚木で診断した以来ないなー。済生会で1度空振りした。
ゆでガエル症候群とはいったものだ。(笑)無症候性重症度に注意だな。

AAA 70才以上の9%クワバラクワバラ。症状なくても触るようにしよう。ましてや腸骨動脈の瘤は触ってもわからんかもしれない。

apexの拍動は触れないことが多い!(コンスタント先生の本には座位で50%とあったが、)よくぞ言ってくれた。しかしRpid Filling Waveは触れたことがない左側臥位にしてでも触れるようにしよう。
討論と 議決と対話 問診はそのどれでもない。そしてそのどれでもある。

タンポナーデにクスマウル兆候はでない!そう言えば去年も同じことを言われたが忘れてた。
逆に重度のTR 右房腫瘍(笑)で陽性。

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私が患者を断らない3つの理由 [つれづれ]

わたしが私が患者を断らない3つの理由。

勤務医というものは基本的にいくら働いてもあまり給料はかわりません。

診る患者が医療者にとって質(?)が高く、数は少ない方がよいというのはごく自然のふつうの発想だと思います、かくゆう私もそういう感じる人間です。

ではなぜ私が意固地なまでに患者を断らないと言い続けているのか?

1つはそれが医師としても使命だと思うからで、それはほぼすべての医師に共通することでしょう。

もう1つは自分の人生を汚したくないという潔癖性的な理由です。これは患者からモノを受けとらない。中途半端で組織をやめない。というものにも共通しています。

3番目高齢者社会に向けてすべての医療者が高齢者医療をシェアする必要があると考えるからです。「譲り合えばあまる奪い合えばたりぬ」の世界を夢見るからにはまず自身がという考えてやっております。
そして自身がそうすることで、何らかの影響を若い医師に与えられないかという想いからです。自分の体力もいつかは限界がくるでしょうが、「自己犠牲的精神」は言葉で伝えられるものではないと考えています。
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ディズニーメソッド [つれづれ]

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ディズニーリゾートのキャストトレーニングスタイルを学んで。


10月1日から2泊3日で東京ディズニーリゾートのトレーニングの方法を学んだ。


実際は済生会病院の研修医が屋根瓦式に後輩を指導する方法を学ぶという企画のファシリテーターとしても参加でなんと給与まで出るのだが、むしろ学んだ事がが多い二日間だった。


 


初心者を教えるメソッドを系統立てて①自分の準備→②相手の準備→③仕事の説明→④実践→⑤フィードバック→①というDisney Training cycleというものを徹底させて教育していくのだが、あまりにも複雑で多彩な状況に置かれることに対しての対応を迫られる我々の仕事しとしては、マニュアルが一部のものに適応されることがむしろ弊害となり得る可能性も考えさせられた。


どんなことでもマニュアルにあてはまらなければ思考静止になってしまうからだ。


 


反面、何度も繰り返し、急を要するようなもの(例えばアナフィラキシーショックの対応)や手技(CV挿入など)ではある程度のマニュアルと予行演習があった方がよいことは自明の理である。


ディズニー式のマニュアルはできる限り簡潔。それを軸に行動基準 目指すゴールおよび組織が尊重する価値観を徹底させることで、多く抱える従業員を同じ方向に向かわせ、各自のアイデアを引き出し、モチベーションを保たせようとするもので、話だけなら一石三鳥にも四鳥にもなる可能性を持っているように思え、結局企業理念やその職場の行動基準というむしろマニュアルとは逆の抽象的な決めごとの徹底が大切ということと理解した。


 


確かにこの仕事をしていると、大切なことが交錯し、また行き違い、いろいろな軋轢を生んでいるように思う。あげくの果てには誰かに都合のよいマニュアルが作成され強制されたりする。


 


病院にとってなにが大切で優先すべきことなのか、それこそが我々が働く意義であり、そのために労力はいとわないというのは理想論だろうか?


 


少なくとも入院患者を増やせだの、在院日数を減らせだの、本筋から外れた命令はギリギリの仕事をしている人にとっては心が萎える話であるが、病院によっては本気で”マニュアル”化してくるところもある。「大事だろ」と言われればそうなのだが優先順位が上層部と現場が違うことが多々あることは、組織としてはやはりマイナスなのではないだろうか?


差し金的な人はただ、思考静止的に決まりなんだからと押しつけてくる場合も多々見受けられる。


それで病院が潤えばよいことであり、それほど病院の経営は危機的なのだろうが、ではディズニーが経済的にも成功している理由な何なのだろうか?あそこで働くことがステイタスになり、また給料が少なくても働きたくなるよってよい人材がセレクトされる。全体がよい方向に向くの良い循環に向いているように思う。


 


具体歴な例で考えてみよう。病院での価値観として私が行動基準として考えるとすれば


Accuracy  Communication InsideOut  Efficiencyなのだが


目指すべきゴール は健康 安心 幸福の提供である。


価値観としては患者のために病院がある。


 


 


たとえばこれらから作られる外来マニュアルがあるとする。


外来スタッフマニュアルを作るとすれば、


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


患者の安全>患者の満足>医療者の利益の優先順位で行動する。


ルールを守らない患者にはそれを説明する。


※ルールとは、時間により受け付けの場所が異なる。電話での相談は基本的に受けない。時間内に来院してもらい相談してもらう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


電話での相談は不可能というのが私の持論であり、相談所をもうけるのがよいと考えている。


 


安全=十分時間をかけた診療ということが言えるので満足よりも優先される。待たされて起こる人がいてもこのマニュアルに従えば、説明することができる。


 


担当の患者が急変して医師が向かわなければいけないときもそちらの患者の安全が優先されることを説明できる。


また、患者を待たせながら、雑談をしていることはこれは患者満足より医療者の利益を優先させたことになる。


おそらく一番難しいのは患者の満足と医療者の利益の優先順位かもしれない。


ただ少なくとも何か行動をとるときにそれは医療者の利益を優先しているのではないだろうか?という疑問が生まれるのはよいことのように思える。


 


基本的にだれかがルールを決め誰かの利益のために強制されるようなシステムは働くひとにも患者のためにもよくない。


シンプルな行動基準と病院の理念が徹底するためにおこわなわれるなにかが最も重要なのかもしれない。


 


このように理念行動基準を徹底させ常に働く人の表に出すことからむしろしばられたマニュアルより行動がよい方向に向かうのではないかというのがディズニーメソッドであり、私のもっとも共感した部分である。


 


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負けるが勝ち [つれづれ]


大衆などどうとでも操れると思っているのだろうか?

11才の時代々木オリンピックプールで泳いだ。その時日本で一番古く、一番立派な50m室内プールで泳げて幸せと思った。10年以上もたってまだまだきれいだなぁと思った記憶もある。

今考えると、あのすごい体育館ができてすぐ(11年)の時に泳いだのだな。

戦後25年、南北戦争から 100年の時にアメリカに水泳合宿でホームステイをした。同じグループのヒトは違ったが、子供たちはあからさまに僕たちをバカにした。あれは大人たちにの考えの投影であることは16才の僕のにも感じることができた。

生まれてから16年戦争は終わって新しい時代だけを見てきたヒトと戦争が終わるのをにとどけてからの25年では同じ国の中でもまったく違うものを見ているのは明らか。 僕らはその人たちの考えから遠ざけられたところで育てられた気がする。

考えてみれば、僕らはアイオワ州の名前は知っていてもハンガリーの首都は知らない。

戦争の時敵だったアメリカ人は我々のことを悪く言わないが、中国韓国の一部のヒトは未だに日本を責め続けている。そんな中で真珠湾の話しだけは我々の中に強く宿っている。南京事変や満州事変より天安門事件 の事の方がよく知っている。僕らは過去の我が国に目を背けて育てられ、「平和呆け」という珍しい人種になった。目的は「骨抜き」だったおのだろうが結構なことではないだろうか?


実際中国や韓国がうちを責めてくる可能性など低いであろうし、集団的自衛権などというものもたいして自衛隊のできる範囲が広がるわけではないように思う。

実際テロに殺されている日本人は何人もいる。そしてそれらに力で対抗することこそがテロたちを生んでいることを私たちはすでに学んでいるはずなのである。


世界が成熟してくとはどういうことなのか?というところで、偽善的に世界を引っ張り回してる国の片棒を担ぎ続けたうえに、そろそろ植民支配から逃れようというところで、おまえもと刃を持たされている感がどうにもしゃくにさわるのである。


我が国が全体主義に?なんて話しではなく、よわっちいやつがボスに媚びをうるために、もしくは密約を守るために自分の仕事の本領を放り投げて、裏切りものとまで言われている。警察→警察予備隊→自衛隊と同じ流れなだけなのに、そして使い捨てられるのもわかっているだろうに、、結局「負けるが勝ち」というもしかしたら唯一の争いを止められる文化をもつ国が世界を救うきっかけをなくしていくような、そんな期待を裏切られた感を持っているのはわたしだけだろうか?

やっぱりおまえはあいつの子分か、、で終わっただけのここのところの騒ぎであった。そんな気がします。



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否定できない地獄と病気のヒトジチ [つれづれ]

今日のレクチャー脳外科の先生くも膜下出血は難しいという話であったが、プライマリで見るものの難しさや、この世界の不確実性を認めながらの非常に共感できるレクチャーであった。
ただその反面やはり我々は、病気というヒトジジをやはり背負ってやっていくことの難しさを考えざるをえなかった。

死ぬかもしれない疾患かもしれない時、その可能性はどれくらい低ければ我々は 大丈夫といってよいのだろうか?それでも患者サイドが「本当に大丈夫ですか?」に自信を持って答えることができるのだろうか?この”否定できない地獄”に対し我々は対抗する力を持っているのだろうか?
NNE= number need to examinationがもし測れるとしたら、でもそれが1万だったら、”その”患者さんは死んでも許してくれるのだろうか?

結局我が日本では、この「否定できない地獄」に医療者が対抗できないという現状が、医療費高騰を引き起こしていいるのではないだろうか?
では患者のためを思うのであれば、頭痛ければ必ずCTを心配ならばCAGをとすればよいのではないだろうか?事実最終責任を持つ専門医はそうせざる得ないのが現状のように感じることがある。
少なくとも研修医はそんなことしていたら医師として「成長できない」という理屈なら通る。
また可能性が低いものの検査をただただ 判断を迷わせるだけという理屈もある。
もし、NNEが10000を越すような場合を標準化できるのであれば、それは許されるという 病気のヒトジジに対する対抗策にコンセンサスができればそれが逆に日本の医療を救うかもしれない。” 正義 ”とは別の次元で、、
実際はどうかというと、そのグレー部分は医師ー患者関係という油によって埋められているのかもしれない。絶対的な責任を持って医療を行って知る人がいるとすれば、それば邪道に映るであろうが、常に100%が得られないのならば、突き放した挙句の結果が最悪ならば不幸なのは患者 医療者の両方である。

このようなヒトジジに払う身代金には物言いができないのはわかるが 、ただ結果的に医療費を使ったものだけを責める今のやり方は明らかに問題と思われる。その内容ではなく、金額の多さに言い訳をしろというそんな場わたり的なことで、医療費が削減できると思っているのはどのバカモノで無責任者なのだろうか ?

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客観?主観? [つれづれ]

「 使用した主婦の98%が満足と答えています。」というコマーシャルを時々見かけるがいったい何%の 人が、このわざとらしい、バイアスの塊のような キャッチフレーズをポジティブに受け取るのだろうか?
そして このようなCMが21世紀になっても続けられているということは、一定の人たちには受け入れられているということであろう。

会社のマーケティングの報告などはどうだろうか?きっと「データで示したまえ」的な言葉が飛びかっていると想像するが、その「データ」の信頼性をきちんとと証明することは意外と難しいのではないだろうか?ちなみに昨日みたビデオのなかで「僕があるソースから得た情報によると 、、」に対して「それトンカツソース?オイスター?」というツッコミがあった。(笑)

私が子供の頃は世界は相対性理論で出来ているなどと思っていた。「神はサイコロを振らない」と、、。ところがボーアに破れ、世界はもっともっと混沌とした、人間の手の届かないものだと考え直したものだ。
しかしガリレオから もっと以前から人間はこの複雑な世の中を数字を使って切り取る方法を編み出し、それにより凄まじい発展を遂げてきたのも事実である。

我々は大自然の根本をとらえることが出来ず、フレームを作りそこに当てはめることで数式→コンピューター を使って応用範囲を広げ、自動化し、利用してきた。そして医療 に関して言えばそのフレーム自体がもっとぼやけている。

医学はその性質上” 演繹的 ” にしか結果をだすことが出来ず、骨組み(根本)からの理論と 統計的 ” 根拠 ” との 相違点も多いのだ。フレームを作っては壊し、また結果が期待できるフレームを発展させていく。小さなフレームがその個にあっていたり、大きなmassこそが真実に近かったりする。そんな繰り返しはこれからも続くのだろう。
それで、そんな迷いの森に入り込んだ時、客観的なものにすがりたくなるのかもしれない。
「 私は こう考えます!」 とは言えず、「 検査結果がこうだから、納得してくれませんか?」 となる。このようにして日本の医療はまるでより確実そうなものを追うばかりに 、より迷宮にはまってしまったのではないだろうか?

客観的っぽい結果は、当たればそれは確定診断となり、それ、周囲を説得する強い武器となるのだが、その結果の評価を誰もできていなかったりする。「 結果が出ているのだからみんなで賛成すればそれでいいではないか、」では真実に近づくことはできないと信じる。
検査の結果は一つの情報。大切なのは患者の身に何が起こっているか?そしてもっと大切なのは結果が最良(であった) か?
H&Pの必要性の理由としてどうであろうか?
そもそもDNAがなぜ作られたのかを我々は知らないのだから。








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マイナスのようなプラス [つれづれ]

胸部不快感で来院した方がⅡ Ⅲ aVf でST上昇している。この人に解離除外目的でCT を撮るということは適切であろうか?そしてそれは単純なのか?それとも造影なのか?

もちろん答えはない。合同のカンファレンスなどで、私がいつも言いたいことは、検査をする理由を常に考えてほしいということであり、その適切性ではないつもり。どうしてその検査をしたのかが即答できないこと、が問題であって、それ以上を追求しないつもりではある。



当然解離は致命的な疾患であり検査域値は下がる。単純CT 自体は比較すればほとんど侵襲はないと言える。

それに比べて造影することでかなりのリスクがあがることになる。



昨日のカンファレンスでは造影のリスクがあるからよく考えろと言われ、

今日のカンファレンスでは除外目的なら感度をあげる必要があるだろうと言われ、研修医もどうすればよいのかわからなくなっているようである。



要するに、否定することが目的の疾患なら「どのくらい」疑っているかが必要であり、「思いついたから」という基準では、一貫性も科学性もなく、教育性もない。

想起を促すものには 血圧が低い?高い?胸痛 ,Ⅱ Ⅲ aVf などがあるが、どれも感度、特異度の高いものではない。

そこを赤信号みんなで渡る的に理由が明確でない検査 をゆるすことは病院のレベルをも止めることになると考える。

否定するためにはどれほどの情報がそろえばよいか?そんなものわからない。結局その場の担当医の判断なのだが、検査のリスクとのトレードオフをするからには「どのくらい」疑っているかが分からなけれできない。ステレオタイプの思考では、医療安全的な要素があるように思われるが、それは医師の思考を蔑んだものと考えるし、若い医師の成長を妨げるものと思われる。

致死的な疾患を見逃さないという厳しさもあれば、出きる限り自分で判断できる医師を目指すという厳しさもあると私は考える。それは、すっきりと表現できない分、タブーのように扱われていたりする。



「血圧左右差もなく、年齢も48才、Marfan体型もありませんでした。症状も以前からあり、労作で悪化安静で悪化するということを繰り返し、今回はその症状が安静で収まらないので来院したという、いかにも心筋梗塞と思われ、解離は否定的と思われたのですが、どうしても心配でCTを撮りました。」という理由をわたしは 否定はしない。しかし、解離が否定できないなら撮るしかないでしょう!という発想は、診断学の崩壊である。また、いずれにしても、単純ならば、ただの「免罪符」やるなら造影という「覚悟」が必要ではないだろうか?
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明けましておめでとうございます。 [つれづれ]

DSC00805.jpg明けましておめでとうございます。
もう何年もこの仕事をしていると、
自然に対する自分たちに小ささを年を負うごとに強く感じるようになってきます。ですがその反面、ヒトの強さに驚かされることもあります。
昨年の震災は被災地の方々の生活を変えただけでなく、我々の意識を少しずつ変えたような気がします。
元来自然との共存を是とした日本人がどういう訳だか自然に対抗し征服する文化を得てしまったことを「おごり」と感じ、自然に回帰しようと考えはじめたのではないでしょうか。
そのことが、今後の日本にどのように影響していくかは知る由もないですが、我々は袋小路にはまっていく様に見える現在の医療業界の中で、目の前の老いや病気という「天災」と戦ったり、共存したりしているのです。


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