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1:1対応? [今日話したこと]

今日研修医に話したこと忘れずに書いておこうと思う。
1対1対応の話し。
若いドクターは国家試験の性質上そういう問題しか作れないことが原因かもしれないが、「1:1対応」を求めるキライがある。紙をめくれば答えが書いてあるというような診断方法を我々はとっていない。
なぜなら一つ一つの情報のその疾患に対する重みが別々にあり、それらはすべてが完璧に診断の正当性を証明するものではないからだ。
「1:1対応」を探しに行くと、たとえば「30才男性が3日前からおへそから汁の様なものがでていて、今日から痛みが強くなり熱もでてきたので来院。おなかにtapping pain があり、腹膜炎が考えられるのでCT をとってもよいですか?」などという思わす吹き出してしまうプレゼンになる。
cartnett  sign など必要なく腹壁内膿瘍?とわかる。
また逆もあり、60才男性が昨日CS施行。本日より左腹部の痛みを訴え来院、かかとを落としても腹痛は誘発されず、腹膜炎は考えにくいと思います。」というのもおかしい。これらはどちらとも 腹膜刺激症状と腹膜炎の「1:1対応」を ”より所” に診療をしている証拠ではないかと考える。
「答えをめくりにいく診断」ということになるが、だとすると、病歴も身体所見も高い特異度を持つもものさえあればそれ以外は必要ないということになる。
ところが特異度も感度も100%という診断法は病理を含めてもなかなかなく、結局判断するのは主治医!ということがこの仕事をしているど段々わかってくる。「答えは自分で出すしかない!」検査データーでもなく、画像所見でもない!これはわたしが常々口にしていることである。

そしてその「総合的」をなおかつ複雑にするのはそれぞれのS)0)がすべてその疾患にとってのパワーが違うからである。そのパワーを認識せずに「ぼうずめくり」のように検査を思考していると、その検査をしたために見つけたことを支持する論理がなく、この次も坊主めくりを繰り返すことになる。はたまた検査をしなかった理由も自分のなかの基準がないままで失敗したりすると、ふわふわと浮いた基準でおびえながら検査の閾値を下げ、その医師はそこまでの医師となることになる。

専門医を長くやっているとそういった失敗例は強く脳裏に焼き付くことになり、ヒューリスティックエフェクトと、エピデミオロジカルの間にたつことが出来きる人はよいが、でなければ結果のみを最終結論とする医師となっていく。この方法は日本の保険体制のなかで守られており、ある意味すばらしいことであるが、逆にこれが保険医療自体の首をしめ、被保険者に影響を及ぼし始めているのが今日の日本の姿でもある。
NNE(number need to examination) はいくら高くてもよいらしい。すばらしい国である。(決して皮肉ではなく)
しかし、先ほども述べたように、坊主めくりをしていると自分のなかのぶれが強くなりすぎて、いろんな擬陽性偽陰性にいちいち振り回されることになる。それらをたどって"総合的に"判断するのではない。
もともとのその患者の仮説があるからこその検査なのだ。
その土壌を間違えなければ、検査の結果が予想外だったとしてもぶれることなないという例をひとつ見せて説明した。
SJS疑いの患者late Crackle が両肺から聴取されたためにCTを撮影。読影結果は"誤嚥性肺炎?"VATSをしたら病理結果はNSIPもしくはUIP 結局、画像だけをみればそう判断してもおかしくないというレベルまでしか読めない結果はたくさんあり、病理させそういうことがある。しかし軸がしっかりしていれば主治医がぶれる必要はない。
今日はそんな話だった。


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否定できない地獄と病気のヒトジチ [つれづれ]

今日のレクチャー脳外科の先生くも膜下出血は難しいという話であったが、プライマリで見るものの難しさや、この世界の不確実性を認めながらの非常に共感できるレクチャーであった。
ただその反面やはり我々は、病気というヒトジジをやはり背負ってやっていくことの難しさを考えざるをえなかった。

死ぬかもしれない疾患かもしれない時、その可能性はどれくらい低ければ我々は 大丈夫といってよいのだろうか?それでも患者サイドが「本当に大丈夫ですか?」に自信を持って答えることができるのだろうか?この”否定できない地獄”に対し我々は対抗する力を持っているのだろうか?
NNE= number need to examinationがもし測れるとしたら、でもそれが1万だったら、”その”患者さんは死んでも許してくれるのだろうか?

結局我が日本では、この「否定できない地獄」に医療者が対抗できないという現状が、医療費高騰を引き起こしていいるのではないだろうか?
では患者のためを思うのであれば、頭痛ければ必ずCTを心配ならばCAGをとすればよいのではないだろうか?事実最終責任を持つ専門医はそうせざる得ないのが現状のように感じることがある。
少なくとも研修医はそんなことしていたら医師として「成長できない」という理屈なら通る。
また可能性が低いものの検査をただただ 判断を迷わせるだけという理屈もある。
もし、NNEが10000を越すような場合を標準化できるのであれば、それは許されるという 病気のヒトジジに対する対抗策にコンセンサスができればそれが逆に日本の医療を救うかもしれない。” 正義 ”とは別の次元で、、
実際はどうかというと、そのグレー部分は医師ー患者関係という油によって埋められているのかもしれない。絶対的な責任を持って医療を行って知る人がいるとすれば、それば邪道に映るであろうが、常に100%が得られないのならば、突き放した挙句の結果が最悪ならば不幸なのは患者 医療者の両方である。

このようなヒトジジに払う身代金には物言いができないのはわかるが 、ただ結果的に医療費を使ったものだけを責める今のやり方は明らかに問題と思われる。その内容ではなく、金額の多さに言い訳をしろというそんな場わたり的なことで、医療費が削減できると思っているのはどのバカモノで無責任者なのだろうか ?

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客観?主観? [つれづれ]

「 使用した主婦の98%が満足と答えています。」というコマーシャルを時々見かけるがいったい何%の 人が、このわざとらしい、バイアスの塊のような キャッチフレーズをポジティブに受け取るのだろうか?
そして このようなCMが21世紀になっても続けられているということは、一定の人たちには受け入れられているということであろう。

会社のマーケティングの報告などはどうだろうか?きっと「データで示したまえ」的な言葉が飛びかっていると想像するが、その「データ」の信頼性をきちんとと証明することは意外と難しいのではないだろうか?ちなみに昨日みたビデオのなかで「僕があるソースから得た情報によると 、、」に対して「それトンカツソース?オイスター?」というツッコミがあった。(笑)

私が子供の頃は世界は相対性理論で出来ているなどと思っていた。「神はサイコロを振らない」と、、。ところがボーアに破れ、世界はもっともっと混沌とした、人間の手の届かないものだと考え直したものだ。
しかしガリレオから もっと以前から人間はこの複雑な世の中を数字を使って切り取る方法を編み出し、それにより凄まじい発展を遂げてきたのも事実である。

我々は大自然の根本をとらえることが出来ず、フレームを作りそこに当てはめることで数式→コンピューター を使って応用範囲を広げ、自動化し、利用してきた。そして医療 に関して言えばそのフレーム自体がもっとぼやけている。

医学はその性質上” 演繹的 ” にしか結果をだすことが出来ず、骨組み(根本)からの理論と 統計的 ” 根拠 ” との 相違点も多いのだ。フレームを作っては壊し、また結果が期待できるフレームを発展させていく。小さなフレームがその個にあっていたり、大きなmassこそが真実に近かったりする。そんな繰り返しはこれからも続くのだろう。
それで、そんな迷いの森に入り込んだ時、客観的なものにすがりたくなるのかもしれない。
「 私は こう考えます!」 とは言えず、「 検査結果がこうだから、納得してくれませんか?」 となる。このようにして日本の医療はまるでより確実そうなものを追うばかりに 、より迷宮にはまってしまったのではないだろうか?

客観的っぽい結果は、当たればそれは確定診断となり、それ、周囲を説得する強い武器となるのだが、その結果の評価を誰もできていなかったりする。「 結果が出ているのだからみんなで賛成すればそれでいいではないか、」では真実に近づくことはできないと信じる。
検査の結果は一つの情報。大切なのは患者の身に何が起こっているか?そしてもっと大切なのは結果が最良(であった) か?
H&Pの必要性の理由としてどうであろうか?
そもそもDNAがなぜ作られたのかを我々は知らないのだから。








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